寄り道の、畦の先
酪農から地域の未来へ。暮らしと農のバトンを受け継いで
畑の前から、始まる一日
「朝はだいたい4時半に起きて、5時半すぎには田んぼを見回りに行ってますよ。犬の世話もしながらね」
佐藤浩一さんの一日は、静かに、しかし確実に地域の自然とともに動き出す。小学校や駐在所、診療所などの公共施設が集中する弥勒寺地区で生まれ育ち、現在はお茶や米を中
心に農業を営むが、その道のりは、役場勤め26年からの転身という、容易ならざる決断の先にある。
「役場は2020年に辞めました。教育や保健、子育て、経済といろんな部署を経験しましたけど、父が80過ぎて、まだ元気なうちに教わらなきゃと思ってね」
そう語る佐藤さんの言葉の裏には、この土地を次の世代に渡すという静かな決意がある。
牛の世話と通勤と
「小学生の頃はね、牛の糞をフォークリフトに積んで運んでたんです。父が酪農をやっていたんで」
佐藤さんの父は、かつて専業農家として田んぼやタバコ畑を営み、やがて酪農に転じた。「牛乳は価格が安定してるから」と始めた酪農は、最大で20頭の生牛を飼う規模に。しかし、朝晩の搾乳や手のかかる世話により、収入と労力のバランスが難しくなり、2000年頃にやめたという。
大学を卒業した佐藤さんは、鉄道関係のSEとして横浜、秋田などを飛び回った。だが、結婚を機に地元に戻る決意を固め、役場へ転職。やがて父の農を継ぐ選択へとつながっていく。
年金と合わせて少し稼げるような仕組みがあれば、きっと農地は守れる
農の現実と理想のあいだで
「農業一本で生活するのは、いかんせん厳しい。でも、やらなきゃいけないって思いがあったから、なんとか続けてるんですよ」
現在は、加工品のシフォンケーキづくりにも挑戦し、週末には横浜など町外のマルシェにも出店している。
「お茶も米も、結局は“売る力”が大事。荒茶をJAに下ろすだけじゃ、厳しいですから」
日々の草刈り、仕込み、出店準備。忙しさのなかでも、「出ていけば、ちょっとずつ“寄に行ったことある”っていう人も増えてきた」と笑う。


次の世代へ渡す仕組みを
「この先、農業で暮らせる仕組みをつくっていかないと、耕作放棄地は増えるばかり」
佐藤さんは、地域内での雇用創出や、引退後の高齢者の就農支援、体験型の“ファンコミュニティ農業”の可能性にも注目する。「60代、70代の人たちが、年金と合わせて少し稼げるような仕組みがあれば、きっと農地は守れる」
農業は、ただの生業ではなく、地域の風景そのものだ。草を刈る手、米を干す手、お茶を摘む手。そのひとつひとつが、寄の未来の風景を形づくっている。
自分の手で、暮らしを耕す
「親父の代までやってた酪農も、俺の代では終わった。でも、お茶も田んぼも、続けていかないといけないなって思って」
地域の農業を続けるということは、経済的な苦労だけではなく、精神的な責任や周囲とのつながりも背負うことだ。けれども、それでもやるのは「やっぱり、ここだから」という思いがあるからこそ。
小さな農業、けれど大きな意味。その重みを一人背負いながらも、佐藤さんは静かに、そして確かに、寄の未来を耕している。